灰色の空ver.AB


一体、世界中には、どれぐらい本気で信じられる人がいるだろうか。





暑く貼りつく様な粘ついた空気の中、少女Aはそんなことを考えていた。


自分らしさという言葉を生み出したつもりになっては、それを否定されて生きていく。

わずかばかりの心のしこりは、日に日に増していくばかりで、とどまるところを知らなかった。


「はあ…」


夏空の下にじっとりと蹲ったマンションの一室で、誰に向けるでもないため息は、

湿気の所為でいつまでも身の回りを取り巻いているような そんな気にすらさせていた。



使い慣れた携帯電話も、

全ては化学文明の発達のお陰なわけで、それに頼って生きていくのは、少女にとって、

どこか違うような違和感さえ覚えさせていたのだ。





どうしてこんなにも、人は気まぐれに振り回されてしまうのだろう。




ましてや其れが自分自身の気まぐれの所為だったとすると、もっとやるせない気持ちになる。



何度目かになる吐息を吐き出して、息苦しい酸素を吸い込むと

無性に会いたい人を 思い出した。


















 “今日は、久々の夏晴れだなぁ”


風邪を引いたコンクリートの熱を靴底で確かめながら、空をふと見上げて、少女はそんなことを考えた。

当たり前の湿気塗れの夏空が、冷夏の今年に限っては、どこか幸せを運んでくる。


そんなさり気ない当たり前を幸せに感じられることが、少女にとってはこれ以上無い喜びだったのだ。





けれど、どうしてだろう。

切り裂くような感覚が、胸の奥を捉えて離そうとしないのは。





白いビニール袋の中の缶コーヒーが、互いにぶつかり合って声をあげた。



 「もうすぐだから、我慢してね」




袋の中の2つの声に呼びかけたのか、

それとも

自分自身に言い聞かせたのか。




足早に駆け出した少女の靴は、ますます地面を踏みつけて、

手元の缶が、カチャカチャと繰り返し返事をした。














「…わ」



「…来てしまった、よ」









ドアが開くと同時に、少女はドアから顔を覗かせた男Bに抱きついた。

しっとりと張り付いたTシャツが、汗を吸収して少しだけ形を作る。


そんなことにさえ、構っている余裕は無かった。



「うん?」




淋しい時に、少女がこうやって抱きついてくることを、男は知っていた。

知りすぎるくらいに。


そしてそれを包み込める容量が欲しいと、そのたび切に願う。


そうして時が、こんなにも過ぎて来たのだった。



「…中、入ろう?」



男は絶対にクーラーや冷房をつけない。


今まで外に居た少女より、男の方が何倍も暑いはずなのに。

こうして抱きつくことさえ、本当なら暑くて仕方が無いはずなのに。


優しくそう言って、手を引いてくれるBは、やっぱり、オトナだなあと少女は思った。



世界がBばかりなら、きっと、こんな気持ちになることはないのに。

















あれから小1時間、少女は男にしがみ付いたまま、言葉を発しなかった。


B自身も、何があったのかなんて問いただそうとはしなかったし、

辛うじて流れない泪を拭うように、ただ黙って、その背中を支えていた。


フローリングの床に座り込んだ二つの影は、まるで今にも溶けて繋がってしまいそうに寄り添っていた。





「Bくん」





「なに?」





先に破られた沈黙は、少女の震える声によるものだった。


顔をBの胸に沈めたまま、背中に回した手で、貪るように、Tシャツを握り締めたまま。




「…あのさ、」


「うん」



聞いてみたいことは、たくさんあった。

たとえば自分の必要価値とか、たとえば自分がいなくなったらとか。


だけどどれも、今の少女の気持ちにぴったりと当てはまるピースではなくて、

喉元まで上り詰めた言葉は、すぐにまた胸の靄の中へと姿を消していったのだ。


「…なんでも、ない。」




ありきたりな言葉は、Bの口から言わせたくはなかった。


何を言ってもらえば、この不安が紛れるのか、今の少女にはよくわからなかったから。




「…なんか、変だ ね?」




少しだけ自嘲気味にそう言うと、

ぽつん



Bの胸に、小さな雨が降った。



曇り空がようやく、悲しみを吐き出した。


普段素直な少女が、時々だけれど、強がって肩を震わせることがある。

そんな時に、雨を受け止められる海になりたいと願うBにとって、

口には出さないけれど、海に頼る曇り空が、何だか物凄く、いとおしくて仕方が無かった。




「変 だ…今日」



ははっ、と、またもや自嘲気味にそう言った少女が、本当に小さな雨雲のように思えて、

両の腕で、力いっぱいに抱きしめた。



「…もっと、頼ってよ」


「いつも、Aは人のことを考えるから」



どうしてだろう。


そんなBが、靄を次第にかき消してくれるような気がするのは。



悲しいときに、泣きたいだけ泣ける場所を、今まで自分が持っていなかったんだと気付く。

他人に甘えることの意味を

取り違えていた。







雲が、空に遠慮せずに泣いた。


雲が、海に頼って泣いた。









一体、世界中には、どれぐらいホンキで信じられる人がいるだろうか。






Bが抱きとめてくれるから、少女はもう、どこにだって行ける。